So-net無料ブログ作成

私の「松山俊太郎先生と私」3 [松山先生と]

松山先生はお隣の国の人達の事や女性に対して差別的な事を言うことがあるので、言葉だけ聞いていたのでは反感を持つ人もいたかもしれません。しかし実際のところ、講義の後に行く酒場で働く外国人には優しかったし女性にも優しいと思いました。「先生は育ちが良いし、上等な愛情を注がれていた人なのだなあ」と感じる場面が多かったです。
 私の事も「ミヤザキさんとはご飯をごちそうする関係にあるんだ」と言って、ケーキやらエビフライやらごちそうして下さいました。手がご不自由でしたが手料理も美味でした。逢うといつも先生の隣には私のための場所があるような気持ちになりましたがたぶん他の人達も同じように感じていたのではないかと思います。
 エコールドシモンに入って何年かした頃、原宿の小さな小さなスペースで初めての個展をしました。作家になりたいとか思ったわけではなく作品展をしてみたかったのです。先生は初日にNさんと連れ立って見に来てくださいました。オープニングだから…と言って缶ビールを何本も差し入れてくれて、急きょささやかなパーティーとなりました。フランス語講座に出ているというフランス人の綺麗な女性が通りがかって人形を見に会場に入ると、先生はフランス語で会話を始めました。女性が何かとてもうれしそうにしていたので後で聞いたら「とてもおきれいですね云々」とお上手を言っていたらしいのです。その時「あ、先生はフランス語も堪能なんだ!」と知りました。そのぐらい私は先生がどんな人なのかが分かっていませんでした。
 会場に並んだ私の人形を先生は見て回り、最後に「奇をてらった様なこんな(とある人形たちを指しつつ)人形はつまらない。あなたはこういうイノセントなものを作りなさい」と言ってピエロの服を着た小さな人形をとても褒めてくださいました。この言葉は他の人達のどんな言葉よりもスッと私の胸に届き、以降私が人形を作る上での羅針盤となりました。先生が最初の段階で私の作風を決めてくれたのだと思っています。
 その後も先生は時々作品展に来てくださいました。最後は3年前の個展だったと思います。歩くのが大変になっていたのに見に来てくれて、とてもうれしかったのと先生が心配なのと…。駅までお見送りするというと「いいからあなたは会場に居なさい。私は休み休み帰るから」と言って帰って行きました。先生の後姿を見送りつつ先生が夜に溶け込んでしまうような不安な気持ちになりました。
 先生との交流の、始まりが八王子の赤ちょうちんで神保町の洋食屋での夕食が決定打になった事の、おしまいは、やはり食べ物でした。
 4月の末にお見舞いに行った私に先生は、誰かの差し入れで枕元にあった’”おっぱいプリン”を「一つ持って行きなさい」と命じました。「忙しいだろうから次は半年後にでも来なさい」という先生の言葉に「来月来ますよ」と心の中で返事をして先生の手を握って帰ってきました。私は先生は今後は回復するばかりだと信じ込んでいたし、みんなそう思っていたのでした。たとえ退院する事が無かったとしても、先生には会いに行けば会えるのだと思っていたのでした。私にとっての先生は会いに行くと「君はとってもいい子だ」と言って頭を撫でてくれる(実際に撫でられたことはありませんが)父性の人でした。
PA0_0297.JPG
nice!(0) 

nice! 0